「一般化のワナ」

教員になりたいと思った原点は、人それぞれだと思います。そしてどんな教師を目指すかも、本当に様々な考え方があるのだと思います。私は自分のそういったものが、自らの経験にいかに捉われているのか、ここ数日でとても実感しました。

 

今日、苫野一徳さんの書かれた『勉強するのは何のため?』という本を読んだのですが、そこに書かれていた「一般化のワナ」という話がとても印象的でした。人は自分の経験を一般化してしまい、それが全ての人にも当てはまるのだと思い込んでしまうというものです。世の中に絶対的な答えなど存在せず、ただ「自分だけの」答えが在るだけなのですね。(万人に共通する本質的な真理を見出すことは可能であるようですが、それは一人の人間が「答え」を見出す際の土台に過ぎないと思います。)

 

私自身、「一般化のワナ」に陥ってます。抜け出したいのですが中々難しいです。

私は高校時代の経験が、自分の原点となっています。その原点があるからこそ教師を目指しているに、その原点を私は否定せざるを得ないのです。なぜなら、その原点とは今私が目指している教育観とあまりにも矛盾しているからです。無意識のうちにその原点に立ち戻ってしまう時があるから、私は心の底から『学び合い』を理解していると頷いてはいけない気がして、なんだか葛藤してしまうのです。

 

その「原点」のお話をしようと思います。

当時音楽の教師を目指していて、音大に行くために毎日ひたすら練習漬けの日々を送りました。努力で何とかなると思い音楽科に入学したものの、そう甘い世界ではありませんでした。自分が、クラスの中で一人だけ才能のない異質な存在のように思えました。「努力が足りないからだ」と自分を責め続け、とにかく自分を否定することで向上心を保たせていました。そして、そんな日々の中で音楽に対する拒絶感は取り返しがつかないほどまでに膨れ上がり、でも音楽科なので退学しない限り逃れることは出来ません。ただただ必死に辛さに耐え続ける高校生活を送りました。

そんな中での、唯一の私の支えが「勉強」だったのです。音楽と違って「勉強は楽しい!」「頑張った分絶対成果が出る!」と感じていて、自分を肯定してくれる唯一の希望でした。授業が、学校生活の中での一番の楽しみだったのです。どの先生の授業も本当に大好きで、一言も聞き逃したくないという意思でもって、他の子の何倍もノートをとっていたと思います。

クラスには、勉強が苦手な子が多くいたのを覚えています。私は「やればできるのに、なんでやらないの?」と思っていました。「先生は完璧な授業をしてくれているんだから、真剣に聞けば分かるもん。聞かないから分からないんだよ。」などと、今思うととても偏屈な考えでした。

 

私が高校三年間で染みついてしまった価値観とは、「自己責任」というものです。音楽が出来ないのなら、辞めればいい。それは自分が出来ない事に責任がある。勉強が出来るようになりたいのなら、自分で頑張ればいい。出来るようになるのも出来ないのも、全て自分の責任である。自分がやりたいと思ったものを、自分の責任でもって頑張ればいい。こう考えるようになってしまったのです。

そしてその「自己責任」という考えと相まって、「学校に行くことの意義は勉強をすることである」という価値観まで染みついてしまいました。私を救ったのは「勉強」だったからです。勉強を頑張ることが自分の存在意義であり、勉強を頑張っていたら新たな夢まで見つけることが出来たからです。学校とは、「勉強を頑張る場所」という考えが根付いてしまったのです。

 

現在の私は、もうこのように考えてはいません。出来ないことを「自己責任」だと捉えて見捨てたくないし、学校の意義は「学力向上」ではなく人間形成に重きを置くべきだと考えているのです。この考えを得た時、私は教育が今までとは比べ物にならないほど魅力的なものに感じられました。生徒が、学校を卒業した後も心豊かに生き続けられるためにはどんな力を養うべきか。生徒が自分を肯定し、他人を尊重できるようになるためにはそんな教育をするべきか。そんな視点でもって教育というものを捉えるようになりました。学校とは、勉強を生徒に押し付けるだけの場では絶対にない。生徒に生きる力を身に着ける場であってほしい、と心から思います。

 

だけど「中高の国語教師になる」と決めたあの高校3年の時が、私の紛れもない原点なのです。今の私とは異なる価値観を抱いていたあの時に、教師に対する強い憧れを持ったのです。今でも母校のことが本当に大好きで、恩師に何度も会いに行っています。そして、母校は私がいた時よりも益々「勉強を押し付ける学校」へと変わりつつあります。

私を絶望から救ってくれた「勉強」と母校に対する愛情は、今でも心の中に在り続けています。なので私は、これから自分が目指していく教育観と”自分の経験”とを切り離して考えようと思っています。そう思っていても、時々教育観を深めようとする時「あれ?何か心の底から理解できない...」という葛藤に出会うことがたまにあるのです。

 

これが「一般化のワナ」なのかなあと思います。

自分では切り離して考えているつもりでも、無意識の内に立ち戻ってしまうのかもしれません。「今自分が信じている指針を、もしかしたら心のどこかでは否定している自分がいるのかもしれない」それは自分が揺らいでしまいそうな程、とても恐い不安です。

 

だから、自分の考えの隅から隅までを深く知り尽くし、その上で自分の理想とするものを定めて、軸をつくっていこうと思っています。まだ揺らいでばかりのこの軸を、少しでも確固たるものにできるよう多くの事を学んでいきたいのです。

納得できる日が来るのかは分かりませんが、この「ワナ」を乗りこえることが、私の教師として挑戦です。