繋がること


今週来週と、都内の高校にて『学び合い』を見学させて頂けることになりそうです。

来月の山梨の『学び合い』の会も、ぜひ参加させて頂きたいと思っております。

学び合い』を知ってまだ1ヵ月、こんなにもたくさんの方と繋がることが出来るとは想像していませんでした。

本当に、心から嬉しいです。



人と繋がることが大きな力をもたらすという事を、私は最近になって知りました。

辛い時や行き詰った時、自分を高めたい時は、一人で戦うべきだとずっと思っていたのです。

誰かに甘えれば自分は弱くなってしまうと信じていました。



でも、甘えることと「繋がる」ことって全く別物なのだと最近気づきました。



誰かが頑張っている、という事を知っているだけでとても励まされます。

そして、自分が頑張っているという事を他の誰かが少しでも知ってくれていたら、とても励みになります。

弱音を吐くとか助けを請うとかそんなことしなくても、ただ繋がっているだけで、とても支えてもらっているのです。




この9月まで、私は意図的に人との繋がりを絶っていました。

勉強に没頭できる環境をつくりたかったのです。

なのに、結局頑張ることは出来ませんでした。

自分でも信じられないくらい本当にやる気が保てず、毎日自分を責めていました。




でも今は、頑張ることが心の底から楽しいです。

最近、私は勉強に疲れてしまったり行き詰った時、空を見る癖がつきました。

北の空を見て、「上越の○○さんも、今頑張っているんだ」とか

西の空を見て、「名古屋では○○さんが頑張っている!」とか

「静岡の○○さんは今どんな事を頑張っているかな」「東京の○○先生はどんな素敵な授業をしているんだろう」

とか想像してみると、自然とやる気が漲ってきて、わくわくしながら勉強をすることが出来ます。



人との繋がりが、私をこんなにも変えてくれたのです。

心が折れることや立ち直れなくなることが、目に見えて減りました。

弱くなると思い人から遠ざかっていたのに、こんなにも強くなれるなんて、本当に驚きです。




これからも、人との繋がりを大切にし続けていきたいです。

感謝の気持ちを忘れずに過ごしたいです。

こんな未熟な私ですが、みなさんこれからもどうか宜しくお願い致します。

「一般化のワナ」

教員になりたいと思った原点は、人それぞれだと思います。そしてどんな教師を目指すかも、本当に様々な考え方があるのだと思います。私は自分のそういったものが、自らの経験にいかに捉われているのか、ここ数日でとても実感しました。

 

今日、苫野一徳さんの書かれた『勉強するのは何のため?』という本を読んだのですが、そこに書かれていた「一般化のワナ」という話がとても印象的でした。人は自分の経験を一般化してしまい、それが全ての人にも当てはまるのだと思い込んでしまうというものです。世の中に絶対的な答えなど存在せず、ただ「自分だけの」答えが在るだけなのですね。(万人に共通する本質的な真理を見出すことは可能であるようですが、それは一人の人間が「答え」を見出す際の土台に過ぎないと思います。)

 

私自身、「一般化のワナ」に陥ってます。抜け出したいのですが中々難しいです。

私は高校時代の経験が、自分の原点となっています。その原点があるからこそ教師を目指しているに、その原点を私は否定せざるを得ないのです。なぜなら、その原点とは今私が目指している教育観とあまりにも矛盾しているからです。無意識のうちにその原点に立ち戻ってしまう時があるから、私は心の底から『学び合い』を理解していると頷いてはいけない気がして、なんだか葛藤してしまうのです。

 

その「原点」のお話をしようと思います。

当時音楽の教師を目指していて、音大に行くために毎日ひたすら練習漬けの日々を送りました。努力で何とかなると思い音楽科に入学したものの、そう甘い世界ではありませんでした。自分が、クラスの中で一人だけ才能のない異質な存在のように思えました。「努力が足りないからだ」と自分を責め続け、とにかく自分を否定することで向上心を保たせていました。そして、そんな日々の中で音楽に対する拒絶感は取り返しがつかないほどまでに膨れ上がり、でも音楽科なので退学しない限り逃れることは出来ません。ただただ必死に辛さに耐え続ける高校生活を送りました。

そんな中での、唯一の私の支えが「勉強」だったのです。音楽と違って「勉強は楽しい!」「頑張った分絶対成果が出る!」と感じていて、自分を肯定してくれる唯一の希望でした。授業が、学校生活の中での一番の楽しみだったのです。どの先生の授業も本当に大好きで、一言も聞き逃したくないという意思でもって、他の子の何倍もノートをとっていたと思います。

クラスには、勉強が苦手な子が多くいたのを覚えています。私は「やればできるのに、なんでやらないの?」と思っていました。「先生は完璧な授業をしてくれているんだから、真剣に聞けば分かるもん。聞かないから分からないんだよ。」などと、今思うととても偏屈な考えでした。

 

私が高校三年間で染みついてしまった価値観とは、「自己責任」というものです。音楽が出来ないのなら、辞めればいい。それは自分が出来ない事に責任がある。勉強が出来るようになりたいのなら、自分で頑張ればいい。出来るようになるのも出来ないのも、全て自分の責任である。自分がやりたいと思ったものを、自分の責任でもって頑張ればいい。こう考えるようになってしまったのです。

そしてその「自己責任」という考えと相まって、「学校に行くことの意義は勉強をすることである」という価値観まで染みついてしまいました。私を救ったのは「勉強」だったからです。勉強を頑張ることが自分の存在意義であり、勉強を頑張っていたら新たな夢まで見つけることが出来たからです。学校とは、「勉強を頑張る場所」という考えが根付いてしまったのです。

 

現在の私は、もうこのように考えてはいません。出来ないことを「自己責任」だと捉えて見捨てたくないし、学校の意義は「学力向上」ではなく人間形成に重きを置くべきだと考えているのです。この考えを得た時、私は教育が今までとは比べ物にならないほど魅力的なものに感じられました。生徒が、学校を卒業した後も心豊かに生き続けられるためにはどんな力を養うべきか。生徒が自分を肯定し、他人を尊重できるようになるためにはそんな教育をするべきか。そんな視点でもって教育というものを捉えるようになりました。学校とは、勉強を生徒に押し付けるだけの場では絶対にない。生徒に生きる力を身に着ける場であってほしい、と心から思います。

 

だけど「中高の国語教師になる」と決めたあの高校3年の時が、私の紛れもない原点なのです。今の私とは異なる価値観を抱いていたあの時に、教師に対する強い憧れを持ったのです。今でも母校のことが本当に大好きで、恩師に何度も会いに行っています。そして、母校は私がいた時よりも益々「勉強を押し付ける学校」へと変わりつつあります。

私を絶望から救ってくれた「勉強」と母校に対する愛情は、今でも心の中に在り続けています。なので私は、これから自分が目指していく教育観と”自分の経験”とを切り離して考えようと思っています。そう思っていても、時々教育観を深めようとする時「あれ?何か心の底から理解できない...」という葛藤に出会うことがたまにあるのです。

 

これが「一般化のワナ」なのかなあと思います。

自分では切り離して考えているつもりでも、無意識の内に立ち戻ってしまうのかもしれません。「今自分が信じている指針を、もしかしたら心のどこかでは否定している自分がいるのかもしれない」それは自分が揺らいでしまいそうな程、とても恐い不安です。

 

だから、自分の考えの隅から隅までを深く知り尽くし、その上で自分の理想とするものを定めて、軸をつくっていこうと思っています。まだ揺らいでばかりのこの軸を、少しでも確固たるものにできるよう多くの事を学んでいきたいのです。

納得できる日が来るのかは分かりませんが、この「ワナ」を乗りこえることが、私の教師として挑戦です。

明日の教室

 昨日の事になってしまうのですが、明日の教室東京分校に参加しました。とても感銘をうけたので記しておきたいと思います。「絶対的に確かな指導があるならば、すぐに実践する。しかし君たちのことはまだ分からない。これから私がしていくことには間違いがあるかもしれない。傷つけるかもしれない。だから、全力で探していく。一つだけ確かなことは、君たちが大好きだということだ」という言葉にとても感動し、思わず涙が出てしまいそうでした。

 それは、自分のこれまでの教育観の痛い所を突かれたように思ったからです。4ヶ月前の教育実習のことが思い出されました。「押しつける」教育ではなく「引き出す」教育というものをずっと理想に掲げていましたが、実習中自分でも呆れてしまうぐらい一方的な授業しか出来ませんでした。私の読解を押し付けているに過ぎず、そんな誘導的な授業心からしたくないのに、どうしても脱却できずとても辛い三週間を送りました。自分には作品への読解が浅かったのと、授業へのスキルが身についてないから出来なかったのだと思っていました。生徒一人一人の心を引き出すことの出来る「絶対的な指導」があると信じていたのです。

 だけど『学び合い』を知ったことや、多くの人の考えに触れたことで、これまで見えていなかったものが見え始めてきています。「絶対的な指導」というものに沿って教師が授業をしたところで、生徒全員の心は呼応するのでしょうか?そして、「自分は生徒に教える上で一番有能な存在だ」と教師が思っている限り、「押し付け」続けてしまうのではないかと思うのです。生徒一人一人をしっかり見ること、そして生徒がどんなに有能な存在であるかを、私は何にも分かっていなかったのです。これからはそうした視点と同時に、「生きるために必要な力」を授業でも養えていけるよう考えていくつもりです。

 このような視点を得ることが出来たけれど、私が今教壇に立ち授業をしたところで果たして達成できるのかどうか、心の底から自信が持てません。。まだまだ自分の考えが浅い気がしてならないのです。来週、都内の高校にて『学び合い』を見学させていただけることになりました。本当に嬉しく思います。自分の考えに何が足りないのか、そのヒントを得ることが出来るようしっかりと学んできたいと思います!

 

今日から始めます!

とても勇気がいりました。ブログを書くのは苦手です。

だけど、それ以上に「変わりたい」「成長したい」という気持ちが強いので、意を決して今日から書いていこうと思います。本当は数日前に決心してはいたのですが、自分の浅はかな教育観を晒すことにどうしても勇気が出ず躊躇し続けていました。

だけど、上越で日々頑張っている方々の存在が背中を押してくれました。私はもう大学4年になってしまったけれど、このまま教師になるわけにはいきません。もっともっと学んで、多くのことを吸収して、教育観を深めないでは現場に立ってはならないと思っています。これからは、しっかりと教育に向き合っていきます。

拙い文章ですが、ご意見ご指摘たくさんいただけるととても嬉しいです。